紫陽花が咲くように

 『今、会いにゆきます』
 一年に一度、六月の雨の日に見る映画。2005年以来の習慣だから、今年で9回目。

 物語のキーになる日付がたまたま私の誕生日だったから、友人がDVDを贈ってくれた。『今、会いにゆきます』って何だか如何にも愛をテーマとした物語という雰囲気の漂う表題だったし、最初はそういうのは苦手だなと思いつつ見た。無理ある設定のファンタジー。
 でも映像がとてもとても美しかった。そして懐かしかった。根底に流れている心が痛いくらい響いた。

 人生はすぎゆく。自分自身もすぎゆく。終わりに向かって。
 どんな幸せな時間も必ず終わる。
 そんなことを認識しながら生きていくことに、私は日々耐えがたい苦痛を感じている。苦痛だから、何もかもほどほどにやり過ごすよう心がける。何も愛しすぎないように。気をつけないとすぐに一生懸命愛してしまうから私は打たれ弱いのだ。だって結局は終わる。終わるのはもうたくさんだ。終わりに怯える私は、そういう方向へ流れようとする。私的エントロピー増大。

 でも「あなたの隣にいることが私の幸せ」と言い切って消える澪には激しく共鳴する。生きていけるのは隣にいてくれる誰かが存在しているからなのだと思い出さざるをえない。思い出したら失ったときに辛いから思い出したくないのだけれど。

 この物語は夫婦と親子の愛情がテーマになっているけれど、映画を見終わったときの私はいつも「隣にいるあなた」を世界中に感じ、生きとし生けるものの世界へのいとおしさを思い出している。
 過ぎていった時間、決して会うことはないけれど日々を共にしているどこかの誰か、それなりに長く生きてきた人生で少しでも隣にいてくれた人々、これから過ごしてゆく日常。怖がっていないで愛さなければ。私的マクスウェルの悪魔がこの映画。


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 そんな面倒な心理なんかを差し引いてもこの映画が好きなのは、よく知っている時代に戻れるからだ。
 高校時代の澪がかけている眼鏡は私が高校生の頃にかけていた眼鏡とそっくり。澪が大学時代に着ている服やサンダル、ハンドバッグは、やっぱり私が大学時代に使っていたものにそっくり。大学時代にようやく出現を始めた緑の公衆電話。田舎では主流だった黄色の公衆電話、家庭の黒電話にかけてあったカバー。
 高校時代や大学時代に甘酸っぱい思い出なんぞ何もなくても、いろんな場面を切り取って思い出せば懐かしいものなのだな。


 雨と共に現れて雨と共に去っていった澪を思い出しながら、来年の六月まで。私の人生の基点になる雨の季節まで。
 紫陽花が好き。